オオ、ジュニア!

~ありふれた少女の非凡な一日~

異次元からの埋葬

妄想はとても僕に優しくできている。

自分の都合の良いように構成されているのだから、それは当然であろう。

妄想の中ではすべての登場人物の行動・発言・感情は僕の意図に沿って動く。

まさしくロールプレイングである。

ロールプレイングだから感情移入する事はあっても、僕自身は登場人物になれない。

当初主人公を僕と設定したつもりでも、気付けば全てが美化されていて僕ではなくなっている。

アニメの視聴者やマンガの読者となんら変わらないのだ。

 

 

「二次元の世界に行きたい」と偶に思う。

しかし二次元とは具体的にどのようなモノを指すのだろうか。

アニメ・マンガ・ライトノベル・エトセトラ・エトセトラ……。

僕は誰かの空想の産物はすべからく"二次元"と称される得ると思っている。

極論を言えば文豪の小説や古典文学ですら二次元に分類できてしまうのだ。

しかしそれらは通常は"二次元"なんて呼称されない。

学問する対象だから?二次元が低俗で文学は高尚だから?

ふーむ……何故だろうか。

一般の小説とライトノベルの最大の相違点は"イラスト・挿絵の有無"である。

つまりライトノベルの登場人物はイラストで描き起こされており、風貌・衣装などが固定されている。

それに対して一般の小説ではそれらが読み手の想像に依存しており、読み手の数だけ同一のキャラクターが作られる。

キャラクターが二次元化される為には"共通認識されているアイコン"が要件となるのではなかろうか。

抽象的でバラバラのイメージを統一して、具体化してはじめて"二次元"になれるのではないか。

 

漫画の映画化・ドラマ化を耳にする度にいつもモヤモヤする。

理想化されている二次元を実写でやる必要ってあるのだろうか?

好きなようにキャラクターを描ける二次元を、制限のある三次元に落とし込んでどうしたいのだ。

理想化・最適化されたイメージをそのまま商品化すればいいのに。

二次元はイデアであり、三次元はエイドスなのだ。

篠川栞子はイデアであり、剛力彩芽はエイドスなのだ。

 

 

家に帰ってコンタクトを外し、眼鏡を掛けると酷く違和感を感じる。

視界が何かと乖離してしまったように感ずるのだ。

何かは分からないけれど、何かが噛み合わない。

ほんの少し、大さじ一杯ぐらいには気持ちが悪い。

ただ単に眼鏡の度数が合っていないだけなら良いのだが……。

 

結論。

アニメばかり見ていると目が悪くなる。