オオ、ジュニア!

~ありふれた少女の非凡な一日~

冬のミルクは純粋すぎるから

 "お見送り"は見送る側の名残惜しさから行われる行為だし、"お出迎え"は早く会いたい気持ちがその人の足を運ばせる。そんな当たり前のことを思い出して、ついさっきまで忘れてしまっていたことに驚いている。

 
 ”日常”という言葉やイメージに対してあまり良い顔をしない人が多い気がする。日常に退屈して刺激的で眩しい”非日常”を求める人が、僕の周りには少なからず居るのだ。
 日常/非日常と区切って考えるのは好きではないのだけれど、自分が誰かにとっての非日常になっていくのは、たしかに少し寂しい。誰かの日常でありたいし、当たり前でいたい。そうさせない為の方法は知っているけれど、実行しようとすると僕の中の何かが邪魔をする。概ね面倒臭い奴だ。僕だってそう思う。
 
 自分が非日常の人になってしまうと、そこに時間や空間などの"どうしようもない壁"が出来てしまう。それを跳び越える方法もあるのだけれど、頑張っても壁の上までしか行けなくて相手も壁の上まで来てくれないと会えない。僕は諦めを上手くつけれない人なので、よく待ち呆けをしている。悪足掻き様はあまり美しく映らないのだろうか。
 
 ”お見送り”や”お出迎え”という儀式が、僕は苦手だ。日常から非日常への、非日常から日常への移行が行われる際のギャップに、酷く狼狽してしまう。前者は寂寞の想いで掻き回されるし、後者は嬉しすぎてどう振る舞えば良いか分からなくなってしまう。
 
 誰かと当たり前に当たり前を共有できることは、この上なく素晴らしい。そして、そうしたい思わせてくれる人が居ることが、何よりも嬉しい。困ってしまう程に、嬉しい。
 
 困った。
 

無題

最初に。
現在、精神が散らかっている状態のままでこの記事を書いているので、書き方と内容がお察しなものとなってしまっている。
しかしながら、このブログの目的である"記録"という側面に立ち返って、書き留めておくこととする。
 
 
 
「『頑張ってけど駄目でした』には何の価値もない」と言われて育てられてきたのに、先日その両親に「過程が大事」「頑張った事が大事」なんて月並みな言葉を言わせてしまった。
慰めてくれているのだろうけれど、反って僕に何もないことが浮き彫りになってしまった。
そう、僕には何も無いことを知ってしまった。
生きている価値も、行き場所も、ポテンシャルも、必要性も、理由も、何も無い。
必死に探してみても何も見当たらないし、誰かに訊いても見つからない。
それはつまり単純にそれらを築き上げて醸成できていなかっただけなのだけれど。
何もかも"つもり"になっていただけだと、今更になって思い知る。
僕は惨めだ。
 
莫迦な女の愚痴とレンアイ相談に耳を傾けている時に、僕は僕が厭になる。
僕はその時、壁でしかない。
掛けられた言葉に対して、(彼女らにとって)正しい言葉を反響するしかない壁。
つらくなるのであれば最初から聞かなければ良いのに、差し伸べられた手は受け取ってしまう。
いくらでも回避可能なはずなのに、それでも応答してしまう。
つらくて泣かない為に賢くなる努力をしていたつもりなのに、こんなにも無能のままだ。
「君の最初の優しさは今何処に居ますか?」「君にとっての僕に君はなれますか?」なんて、恨み事の一つでも漏らすことが出来れば楽なのかもしれないけれど、壁である僕には言えるわけがない。
僕は阿呆だ。
 
「見ている人は、見ている」という言葉が、心底憎い。
そう言われた時にいつも「じゃあ君が見ていてよ!」と叫びたくなる。
所謂"報われない努力"は、報われない事自体が悪いのではなく努力の仕方が悪いというのは、知っているつもりだ。
全部自業自得なのも知っているのにも関わらず、上のような事を考えてしまう。
自己否定の発言をすればする程周りの人達に失礼になるからしたくはないのだけれど、どうやっても自己肯定出来ない。
外からの否定(そう捉えている時点で駄目なのではあるが)を相殺する自己肯定が見つからない。
すべては我が表象であることは知っているので、要は主観が根腐れしていて全部を駄目にしている。
僕は僕である限り、僕を許せない。
許せないなら主観を変えるしかないけれど、変わった後の僕は僕なのだろうか。
僕は醜い。

 

こんなにも何も無くて惨めで阿呆で醜いのに、あの日に死に切れなかったという事実が僕を醜悪にしてしまっている。

「神は自ら助くる者を助く」けれど、僕は自ら助く方法を知らない。

こうすれば楽になれると知っているのに、矛盾することばかり浮かんでくる。

何も無い自分を愛せないし、阿呆な自分に泣いてしまうし、醜い自分が嫌になる。

「どうすれば良いのか」と困ってばかりで、困る。

僕はこれからどうすれば助かるのだろうか。

困った。

理由なんか無いさ、おまえが欲しい

 

四通程返信していない手紙が溜まっているが、ついにぼちぼち書けそうな気がしている。

さて、何を書こうか。

 

 

好奇心と恐怖は隣接している。

これは"怖いもの見たさ"という言葉がわかり易く指してくれているので、皆様ご存知のことであろう。
例えば未知なるものと遭遇した時に、心踊れば好奇心になるし逆に振れると恐怖になる。
大抵の場合は二者択一の感応を示すのだが、人が意識の対象になった時にはどちらか一方に振れずに、両者が(正の相関関係を描きながら)ブレンドされてしまうのは何故か。
何らかの応答があるからだろうか。
それとも僕が特異なだけだろうか。
 
幼い頃から僕は怖がりな(良く言えば慎重な)子どもだったそうだ。
多分それは今でも引き摺っている。
今でも真っ暗闇は怖いし、高い所も怖い。
ひともすこし怖い。
 
好奇心旺盛と言えば聞こえが良いけれど、結局のところ唯の臆病者なのかもしれない。
既知を増やして安心しようとしているだけか。
しかし、了知が新たな未知を呼んでしまって僕はどこまでいっても概ね無知のままだ。
掘れば掘るほど横に縦に空間が広がって深掘りが終わらない。
 
好奇心旺盛に依る生活は、きっといつか破綻する。
今はまだ体力・気力が充実しているからどうにか遣り繰りできているが、それが衰えた時には……。
若しくは僕が衰えた際には自然と好奇心も収まるのだろうか。
どちらにせよ待っているのは破滅なので、巧く回さなければならない。
 
 
こうやって、日々息をするだけで反省点が多くて、とても楽しい。
「揺蕩えども沈まず」をモットーに生きていたい。
 

日が当たれば、影が違う、色が違う、光が変わる

今朝、鏡の前で紙を乾かしていると限りなく白髪っぽい毛が一本あったので、「どうせ光の反射でそう見えるだけだろう」と高をくくりながら抜いてみると、本当に白髪でした。紛うことなき白髪。ザ・白髪。

人生初白髪は、白髪独特の(特に黒髪と白髪のグラデーションのものによく見られる)"野生動物の毛っぽいもの"ではなく、ヘナヘナの糸くずのような白髪でした。

如何にも僕らしい。

 

  

最近、意味も無く"書きた欲"が煽られることが多い。

日本語って綺麗だなあと感心するばかりであるが、中でも形式からして完成されている四字熟語は頭一つ抜けて佳い。言うなればエリート集団である。

例えば『軽佻浮薄』『隔靴搔痒』『無知蒙昧』などはバランス・語感共に、惚れ惚れする程に素晴らしい。

『天衣無縫』の怒涛の追い上げ感は書いていて爽快感を覚えるし、『洒洒落落』の並列感は美しいとすら思う。

ちなみに私感ではあるが、語感にのみ限って言うならば『マントヒヒ』こそが最強の単語だと確信している。

どうでも良い。

 

この歳になって、ようやく本を読むようになった。

前述の"漢字書きた欲"の原因はこれだろう。

本を読むようになってから今まで以上に一人遊びが上手になってしまい、自室で過ごす時間が増えた。

外だと溢れる雑音が(酷い時はイヤフォンから流れる音楽ですら)煩わしく感じるので、どうしても自室こそが快適な空間になってしまう。

願わくば書を捨てて街に出たいのだが、その前に積んでる本を読みたいし寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』と『少女詩集』も読みたい。

参った。

 

本を読むようになってから、なにやら「巧く回している」という予感があった。

しかし、それはただの錯覚でやっている事の本質は変わっていない事に気付いてしまって、とても悲しい。

解消可能な問題(のはず)なので、まあ、良いのだけれど。 

少しずつでも巧く回しましょう。

 

 

僕の近傍で山口百恵が流行っている。

ちゃんと聴いてみると、なるほど格好良い。

なんとなく可愛いイメージがあったのだけれど、松田聖子と混じっていたみたいです。

……松田聖子も聴かないとなあ。

ん?義務感?なんで?

 

行かないで、行かないでよ、記憶の向こうへ

今日は予期せぬ事で記憶のトリガーが引かれて、参った。

こういう時に寄り掛かる相手が見当たらないのが、一層つらみを増している。

「助けて」なんて言おうと思えば言えるのだけれど、「なにを、どう、助けて欲しいのか」を思索すると、自ずと何も言えなくなる。

僕の内心の問題だし、言ったところで傷の舐め合いにしかならない。

そういう相手が"居ない"のではなく、ただ単に僕が掲げた規律に則ると"作り得ない"。そしてそれが更につらみを増す。

概ね不器用。



というわけで、気晴らしに勝手に動画を紹介することにする。

 

まずはこれ。

ミニクーパーのCMなのだけれど、序盤の雰囲気と中盤からの盛り上がりがとても佳い。

BMW以前のミニクーパーの方がデザイン的に好みなのだけれど、こんなCM見てしまったら、もう、ね。

"who would ever be normal?"という言葉自体、英語が不得手な僕にとっては超クール。

素晴らしい。

 

お次はこれ。

Falconという万年筆だがこれは輸出仕様のもので、国内流通しているものだとELABOという万年筆らしい。

二万円という手が届きそうな値段が、もう、憎い。

使い熟せるか否かは置いておいて、是非欲しい。

だってこんな字で手紙などが届いた日には、惚れること請け合いでしょう。

僕なら便箋の宛名を見た時点で、惚れる。

書いている文字もさることながら、音も大変格好良い。

併せて知ったのだが、カリグラフィー(西洋書道)というものもあって非常に興味深い。

 

最後はこれとこれ。

ストップモーションとかいうオシャレ動画。

後者の方が圧倒的な完成度を誇っているものの(定点カメラの時点でやり易い)、前者の方が"らしさ"を活かせていると思う。

壁抜けとか、場面転換とか、滑り移動とか、見てて飽きない。

なんだか偉そぶった物言いに聞こえるけれど、一度御座なりなモノを撮った事もあるので凄さは身に沁みて分かっている。

あと曲も佳い。

 


今日は何時にも増して概ね煩雑であった。

まあいいか。


君の優しさに埋もれていた僕は

言うつらみと言わないつらみの板挟みになることが多くて、結果として寡黙になりつつある。

思慮深くなったとも言えなくはないけれど、言えないだけなのできっと違うのだろう。



僕はいま"泣いてみたい欲求"に蝕まれている。

つい先日には、ほんのあともう少しで泣けそうな心持ちだったのだが、どうやら掴み損ねたようなので、尚更だ。

誰かに泣かせてもらえると尚佳いのだけれど、たぶん絶対に無理だという確信めいたものがあって、ほんのり辛い。

そもそも「泣くという動作は(効果的な演出ではあるけれど)概ね合理的じゃない」とか、「(そうとは限らないのに)泣いても何の解決にもならない」とか考えている辺り、もう、駄目だ。泣けるはずが無い。

さらに誰かに泣かされるなんてのは以ての外で、自分の外部に依って揺さぶられるなんてことは、尚の事無いのであろう。

 

ふと冷静に立ち返って考えてみると、僕は所謂”彼女”という存在に自分の重心を移譲してしまっていたように感じる。

特別な存在なのだからそうしなければいけない、といったような義務感に追われていたのかもしれない。

少なくとも、当時の心持ちに関してはいまの僕には何故かもう分からない。参った。

まあ、どうでもいいか。

 

ところで数日前に知人から「先生みたい」と称され、甚く(もはや既知の感覚で)納得してしまった。

同時に、他の方からは「冷たい」などと形容されることもしばしばあって、今までとは逆の形容詞なので、非常に興味深い。

最近の僕は内部と外部を明確に分けているように感じる。

これは「外部に対する異質感がある」と言うのがしっくりくるかもしれないし、「どうしようもない距離を持つことができた」とも言える。

正しい人との接し方を忘れてしまっただけなのかもしれない。(そもそもそこに正誤があるのかも疑問だけれど。)

兎に角、疲れないし悪くない距離感なので、僕は吝かではない。



メモ以外で文章を書くのが久しいので、どうにも草臥れた。

少しずつ是正していきましょう。


サンデーズのSマークが目印さ

IPA(インディア・ペール・エール)という麦酒を知ってからというものの、僕の麦酒欲求が頭を擡げている。

とても佳いビールなので、所謂普通のビールに飽きてしまった方は、是非。

 

 

急な夕立に見舞われて、雨宿りなどをしたい。

そういえば、北の気候では夕立というものに中々お目にかかれないようだ。

もうかれこれ六年程こちらに住んでいるのだが、たった一度きりしか夕立に降られたことがない。

あれは確か、後ろに人を乗せて走った極短い距離のツーリングの際の出来事で、二人できゃあきゃあ叫びながら少しだけ雨宿りした記憶がある。

その時の光景が今更になって目に焼き付いて、僕を離さない。

この感覚はきっと懐古と呼ばれるもので、つまり「もうあのような夕立の楽しみ方は出来ない」という確信に依るものだ。

反面、今ではあの時と違った楽しみ方が出来るはずなのだから、悪い気はしない。

ああ、夕立が待ち遠しい。

 

僕は究極的に親和性なんてものを持ち合わせていない。

合わせるなんて芸達者なことは出来ないし、合わさるなんて奇跡は滅多に起きない。

一応空気は読むけれど、自身の好奇心の為ならばそれを壊すことも厭わない。

気になったことは訊くし、興味のないことは聞けない。

興味のレンジをなるべく広く持つことで、どうにか綱渡りをしているつもりだけれど、知らない内に転げ落ちているのかもしれない。

特に最近では、他人のことを"歩く本"と捉えてしまっている節がある。

「教本・小説・詩集etc.……ありとあらゆるジャンルを詰め込んだ一冊」と言えば聞こえは良いかもしれないが、このままでは僕はどこまでいっても読み手にしかなれない。

この甘えた立場は今まで僕に与えてくれた方々に失礼なので、改めなければならないものなのだろう。

僕は先輩面するに値する先輩になれるのだろうか……あまり自信が無い。



美味いビールは大抵アルコール度数が高くて参っている。

体感ではそれほどでもないのだけれど、いざ飲んでみると直ぐに火照って、てろんてろんになってしまう。

どれもこれも美味しいんだけれどなあ。