オオ、ジュニア!

~ありふれた少女の非凡な一日~

私は文化人になりたかった

 とても賢い先輩がなんだか難しそうな本を読んでいて、ふと思い出した。「そういえば、父もなんだか難しそうな科学雑誌をよく読んでいたなあ」と。幼い頃にそれを見た僕は「大人になると当たり前に"なんだか難しそうな本"を読むことになる」と思っていた。
 知人の賢い女性を思ってみる……絶対読んでいる。身近な友人を思ってみる……読んでた。何冊か借してもらって、苦い顔で読んだ記憶もある。いや、でも、兄は、弟は、あの人は……。

ゆるやかな変身願望

 少し前にビジネスマナー講習とかいうのを受けた。その中で講師の方が「女性の化粧はマナーです、すっぴんなんて論外!」なんて仰っていて、とても驚いた記憶がある。毎朝の起床がクライマックスの僕なので、髭を剃るだけで事足りる男で本当に良かった(加えて言うなら、未だ髭を剃ることすら忘れがちでよくマスクをしている)。

 しかし、仕事中に相手の顔をそんなに見るのだろうか。いや、見るには見るのだろうけれど、すっぴんかどうかなんて僕なら気付ける気がしない。たった一度だけ、友人の女の子が普段と違ってセクシーに見えて、口紅を変えてたことに気付いたことがある(余談だけれど、それは彼女のお気に入りのモノだったそうだ)。でもそれっきりだ。デキるビジネスマンだとすぐ気が付くのだろうか。わからない。

 ところで、女の子はお気に入りのリップを塗ったら変身できるのだろうか。確かあの日はいつもと変わらない平日だったはずだ。それなのに、何故。ただの気紛れだったのだろうか。それともあの日、彼女に何かあったのだろうか。今になって思い返すとなんだかドキドキする。普段日になんでお気に入りの口紅を付けてきたのか聞きそびれてしまったことを少し後悔する。

 

  ふと「偽名のある人生を送ってみたい」と思う。なるべく普通で意味なんて無いありきたりなもうひとつの名前。偽名というより通名の方がより正しいかもしれない。その名前を何十年も使って生きて、みんな僕の本当の名前を知らない。とてもミステリアスで痺れてしまう。

 けれどこれを達成させるには、かなり波瀾万丈な人生を歩まねばなるまい。出来れば中学卒業を機に故郷を捨て自立。最終的な職業は必然的に自営業。サラリーマン・公務員とか有り得ない(採用の際に名前がバレるから)。中卒で自営業……これだけでかなりロックで破天荒だ。無意味に憧れてしまう。そして、いつか結婚する時に、婚姻届を見た奥さんだけが僕の本当の名前を知る。婚姻届を見た奥さんにはとてもショッキングかもしれないけれど、なんだかこれは凄いロマンチックだ!ええい!今からでも遅くない!いざ職を捨て、お国を捨て、ロマン溢れる偽名の世界へ飛び込もう!

 

 結論。万人が当たり前に結婚出来ると、まだ僕は思い込んでいるみたいだ。

 

どこまでも丁寧に

 前回のエントリの通り革細工を始めたのだけれど、手抜きのを一つ、拘ったものを一つ作り終えたのでとりあえずの感想を書こうかなと思います。

 

 なんとなく敷居が高いと感じていた革細工。しかし、いざやってみると「丁寧さ」だけが必要で、本やネットの知識と道具さえあれば特別な技術は微塵も必要としなかった。習熟する必要なんて、無い。(デザインの際はある程度の美的センスは必要かもしれないけれど、何を良しとするかは人それぞれ色々で基準が無いので除外する)

 僕は特別器用でも、繊細な手先を持っているわけではない。完成品だけ見ればそう感じるかもしれないけれど、見えないところで泥臭く試行錯誤をしているだけで、才能は全くの平凡だ。そんな僕でも難なく出来てしまったのだから、至極簡単にはずだ――「ただ作る」という点に限っては。

 ステッチを入れる・コバの処理・床磨きなどなど、細部にまで気を配るとキリが無い程にやることが増える。これは食べられる料理を作るのは簡単だけれど、美味しい料理を作るのは難しいのと似ている。革細工も料理も、丁寧に作らなければ良い物を作ることは難しい。そして、些細な手間(例えば料理でいうと、ニンニクの芯の部分を取り除くような)を省かないことが丁寧さの秘訣だと感じた。

 始める前の僕と今の僕で大きく違っている点がひとつだけある。それは慣れによって「丁寧さ」を補強する気配りが出来るようになったこと。ただそれだけ。でもそれだけで完成品の質が見違えて変わるから面白い。

 

 革細工は凝り性な人ほど楽しい遊びなので、気になる方は是非はじめましょう。

 それではまた。

可愛い人になりたい

 僕は努力をしたことがない。

 「つらいけどがんばる」みたいな根性を発揮する前に「つらいなら止めてしまえ」と思ってしまう。おかげで悔し涙を流した経験なんて一度もない。何事も楽しめる範囲でしかやってこなかったし、今まではそれでどうにかなってきた。これからはどうかなあ……どこかで行き詰まる気がする。その時にはちゃんと努力できるのだろうか。ずっと楽しめていたらいいな。

 多趣味であること自体を羨む人や褒めそやす人がいるけれど、すこし複雑な気持ちになる。一つのことを極める方が格好良いのに。確かに努力できない性格の結果として自分が多趣味になったということもある。けれどそれを差し置いても、興味さえあれば嫌でもそれが趣味になりそうなものなんだけれど。無趣味な人ってどうやって生きているのだろうか。なんだかすこし怖いなあ。

 というわけで最近、革細工を始めた。格好良く言うならばレザークラフトとかいうやつ。前々から興味はあって小さなモノは作っていたのだけれど、今度はしっかりと道具も揃えてちゃんと練習するぐらいには真面目に取り組んでいる。今まで趣味ばかり多くて特技が無かった僕なので、せめて今回ぐらいは習熟したい。多趣味無特技ほど寂しいものはない。……がんばろう。

チントンシャンテントン

 三味線の擬音らしいですね。スーパーで流れていたクリスマスソングを耳にして、ふと思い浮かんだのだけれど概ね的外れ。試しにチントンシャンと鳴らして空を滑るサンタクロースを空想してみたけれど、やっぱりなんだか間抜けだ。

 

 先日、健康診断を受けに行ったらそこがわりと大きな総合病院だった所為か、死にかけの人やそうじゃない人に囲まれてへろへろに疲れた。周りのみんなの顔や話を見聞きしていたら、なんだか切なくなってしまったのだ。今でも思い出す度に少し心が細くなる気がする。

 病院は嫌いだ。幾つになっても注射は怖いし消毒液の匂いは気が滅入る。それにお医者様の前に座らされると何故だか酷く申し訳ない気持ちになる。くだらない悪戯で叱られているような気持ち。僕がまだ小学生の頃、注射が嫌で学校から逃げ出したことがあるからかもしれない。
「運動はされますか?」
「いえ、あんまりしないですね」
「お煙草は?」
「あ、吸ってます」
「一日どれくらい?」
「えっと、一箱ぐらいですかね」
「何年吸ってますか?」
「……4年程」
「正直に」
「……6年、です」
「学校卒業したら煙草も卒業しましょうネ」
「はあ」
 いまになって思い返すと普通に叱られている気もする。まあいいや。叱られた記憶なんて遠い昔のことなので、叱られ方を忘れてしまっているのかもしれない。
 
 ちなみに、健康診断の結果は" 「至って健康(低血圧である点を除く)」だそうだが、一晩寝たら風邪を引いた。鼻からくるやつ。鼻の風邪を引くと幼い時分に呼吸を忘れる程泣いた事を思い出す。鼻が詰まっているのに匂いがするなんて変だけれど、あの時と同じ匂いがする気がする。風邪を引くと少し火照った身体とふわふわした感覚も相まって、ノスタルジーに駆られるのは僕だけだろうか。そういえば、最後に看病されたのはいつだったっけ。

野生のヒトコブラクダは絶滅しました。

 台風の行方に思いを馳せたり駱駝について調べたりしていたら、いつの間にか季節が変わっていた。要するにのんべんだらりと過ごしてしまっている。概ね退屈。足元で鳴る枯れ葉の擦れる音もなんだか耳障り。北の地はもう寒い。

 先日、友人とビールを飲みに行った際に"Fernweh(フェルンヴェー)"という言葉を教えてもらった。ドイツ語でホームシックと反対の意味で”どこかに行きたい病”という意味らしい。僕はどこに行きたいのだろうか。「ここではないどこかに行きたい」とは常々思っているけれど、昔抱いていた冒険心とは少し違う気がする。何が違うのだろうか。何が変わってしまったのだろうか。

 「変わらないね」と言われる度に少しだけ困った気持ちになる。変わった自覚は無いけれど、変わらず同じである自覚の方がもっと無い。寒くなる度にコンビニの肉まんが小さくなっている気がするし、感動することも随分減ってしまった。写真も撮れなくなってしまったし、文章もめっきり書けなくなっている。ぼやぼやしていたらズレに置いて行かれそうだ。生活に変化を。

 

およそ人というものに騙されたことがない

 書くためのファクトが無さ過ぎたというのが主因ではあるものの、文章を思うように書けない事案が発生したので、酷く参っている。こうなったらブログの更新速度を上げて再訓練してみようかと画策している次第である。あの時、せめて文章の構成力だけあればまだ美しい文章が書けたはずなのだ。こんなにも悔しいことはない。

 

 戯れにワイングラスで水道水を飲んでいる。内容物の身の丈に合わないグラスの使い方をすると、とても面白い。

 グラスやカップは飲料の”服”だと、僕は思っている。その比喩に習うなら「いつもの女をドレスで着飾らせる」みたいな感覚だろうか。出来れば続けて「そして、抱く」なんて言いたいけれど、そうなると相応しい男性にしか許されないので辛い。斉藤和義とか役所広司とか。少なくとも僕は駄目だ。そもそも”いつもの女”ってなんだよ。

 

 僕はおよそ人に騙されたことがない。加えて言うと、裏切られたこともない。事実不存在は言い過ぎにしても、少なくとも忘れているか自覚が無いのだ。

 これは信心深さに依るものではなく、期待のしなさに依るものだったりするので頂けない。このままだとあまりにもバランスを崩してしまっていて、近い将来とても寂しい結果になってしまうという確信がある。けれど、暫くこの生き方ばかりしてしまったので正しい生き方を忘れてしまった。ところで正しい生き方なんてあるのだろうか。困ったなあ。